「発信しない会社は、存在しないのと同じ。」
この言葉に出会ったとき、私は新しい冒険の始まりを予感していました。
私は20年以上、「編集者」として情報を「伝える」ことを追求してきました。
そしていま、地方に移り住んだ私の目の前に、ある現実が広がっています。
・作っただけで放置されたWebサイト
・若手社員に丸投げのSNS運用
・変化の必要性を感じながら、どこから手をつければいいのかわからない日々
・「うちには無理」という諦めの空気
はじめまして、タカムラと申します。
東京から地方へ移住して9年。フリーランスになり4年目。
紙媒体からWebまで、さまざまな形で「伝える」を追求してきた編集者として、地域の企業や自治体の情報発信を支援する日々を送っています。
この旅の途中で、私の中である確信が芽生えました。
地方の情報発信は、まだまだ可能性に満ちている――。
このブログは、地方の情報発信を変える”攻略本”です。
田舎に転生した私が、次世代の経営者や発信者とともに、
試行錯誤しながら挑戦していくリアルな記録。
なぜ私がこのブログを書こうと思ったのか?
ここからは、そのきっかけと経緯を、私の物語とともにお話ししていきます。
タカムラの基本情報
・1981年、宮城県仙台市生まれ
・多摩美術大学卒業
・18年過ごした東京から地方へ移住
・家族構成:夫・子供2人の4人家族
・職業:フリーランス編集者、コンテンツプランナー
■ 経歴
・編プロ➛出版社で雑誌編集者としてスタート
・Webマーケティングの世界へ転身
・震災後、復興支援プロジェクトに携わる
・地方移住を機にフリーランスへ
続いて、私の生い立ちを紹介します。
幼少期:社宅での思い出と原体験

サラリーマンの父と、ソーシャルワーカーの母の元、三兄弟の末っ子として生まれました。母は虐待などで保護された子どもたちが暮らす児童福祉施設で働いていました。
自宅は施設のすぐそばにある社宅。母は泊まり勤務も多く、朝になると姉と一緒に施設に母を訪ねていきました。
髪を結んでもらう間、施設のお兄さんお姉さんたちが「おはよう」と声をかけてくれる。夏はプールで一緒に遊んだり、そんな温かな思い出が今でも心に残っています。
小学生になって母の仕事のことがわかるようになった時、ふと思いました。
人はみんな違う環境で育つけれど、その人自身の価値は変わらないんだ。
子ども心に芽生えたこの気付きは、後の私の人生観を形作っていくことになります。
学生時代:「編集者」を志す

■ 中学:情報の宝庫、雑誌との出会い
中学生の頃は、人と同じ事をするのがとにかく嫌い。雑誌が大好きで、ファッション誌やカルチャー誌に没頭しました。まだネットがなかった時代。東北の片田舎で、「Studio Voice」「H」「Cut」などを一人でもくもくと読み込んでる中学生でした。
進学相談で「ファッションの専門学校にいく!」という私の突飛な発言に、見かねた担任が美術科がある新設の高校を紹介してくれました。
■ 高校:自分らしさを見出す
進学した高校は校則がなく、修学旅行や文化祭もやりたければ生徒が自分たちで決めるという先進的な校風。服装も体育着も上履きも自由。七色の髪の人、校内で厚底ブーツを履いてる人、ずっと謎の革手袋をしている人。個性豊かな同級生たちの中で、私も徐々に自分らしさを見出していきました。
美術学科でデザインや油絵などを学ぶ中、情報をたくみに編集して多くの人を夢中にさせる「雑誌」というメディアがますます好きになり、この頃に「私は、編集者になる!」と志します。
■ 大学:東京へ
大学は都内の美大へ進学。
キュレーターや編集者を輩出する芸術学科というところで、人間が創り出す芸術表現について、理論や技術、歴史を学びました。「人間関係の観察が楽しいから」という理由で、派遣飲食のバイトにも明け暮れました。
美大での学びは、単に芸術を理解することだけではありませんでした。歴史の中で人々が情報をどうとらえて表現し、人の心に届けてきたのか。文化の流れを作ってきたのか。
この視点は、後の編集者としての私の「まなざし」の原点となりました。
編集者としての第一歩:人を動かす仕事

出版社で編集の基礎を叩き込む
10代の頃から「編集者になる」と決めていた私は、就職氷河期の中、編集の社会人学校に通い、雑誌編集の世界へ飛び込みました。制作の企画・進行・ディレクションの基礎を徹底的に叩き込まれた日々。
「すみません、時間がなくて打ち合わせの準備が…」
3日連続の泊まり込み作業明け。目は充血し、服はシワシワ。次の取材の資料もロクに用意できないまま、手ぶらで社内カメラマンの先輩のもとへ向かった私の口から出たのは、言い訳めいた言葉でした。
先輩は静かに私を見つめ、こう告げました。
「編集者は人を動かす仕事。『時間がない』は、言い訳だよ」
その瞬間、私はハッとしました。
確かにその通りだ。写真を撮ってもらう。原稿を依頼する。デザイナーと協力して誌面をつくる。取材先と関係を築く。すべては人と人とのコミュニケーション。
編集者はディレクター。準備が不十分なら、チームの力を集結することはできないし、10代の自分が夢中になったような魅力的な紙面は作れない。
泊まり込みの作業が続くことも多く、洗面台で髪を洗ったことは1度ではありません(笑)。3人のチームで月に4誌を作り上げたことも。人を動かすために、まず自分が動く。その姿勢が、相手の心を動かすのだと知りました。
そんな忙しい日々の中、徹夜明けで帰宅すると、いいの香りが。疲れた私を気遣ってピーマンの肉詰めを作ってくれていたパートナーと、まもなく結婚することになりました。
紙の雑誌という世界で学んだ「人を動かす」という基本。私は確かな手応えをつかんでいました。しかし、出版業界を取り巻く環境は、静かに、しかし確実に変化の兆しを見せ始めていたのです。
デジタルとの出会い:「伝える」の新しい可能性
リーマンショックの波が業界を揺るがし、紙媒体の先行きが見通せない状況でした。次々と休刊になる雑誌、縮小する出版社。そんな中で私は、紙媒体の未来に危機感を抱きながら、時代の変化を強く意識するようになりました。
「これからはデジタルの時代が来る」
その直感に導かれるように、中小企業を支援する会社に転職を決意。Webマーケティング部の社内編集者、そしてWebディレクターの卵として新たな挑戦をスタートしました。
データに基づく戦略立案、ユーザー目線での思考、そこで出会ったマーケティングのロジカルな世界に、私は夢中になりました。
そして、さらに嬉しい発見も。
雑誌編集で培った「情報を編集する力」が、デジタルの世界でも存分に活かせるということに気づいたのです。編集力はむしろ、メディアを超えて応用できる普遍的なスキルとして、あらたな業界に挑戦する私の成長を加速させる強力な武器になりました。
デジタルの世界で新しい可能性を感じ始めていた私の前に、予想だにしない出来事が立ちはだかります。
人生の転換点:震災と復興支援

その日は、いつもと変わらない朝でした。
3月11日、午後2時46分。東日本大震災発生。
私の故郷である宮城も甚大な被害を受け、海沿いにあった父方の実家は被災。祖母の安否を確認するまでの時間が永遠のように感じられました。
震災発生の翌日の朝、ヘリのテレビ中継が現地の様子を映し出しました。そこで目にしたのは、祖母の家のすぐそばの山すそが瓦礫のかたまりと化した光景…。潰れた家々や車が積み重なり、見慣れた風景が一変した世界。
言葉を失いました。
そのときのヒュッと息が止まる瞬間を、今でもはっきりと覚えています。
祖母は海沿いのデイサービスから奇跡的に避難していました。
瓦礫の波に飲まれる直前に、火事場の馬鹿力で動けない足を動かし必死で山に登り、九死に一生を得たのです。
その後、東京でいつもの日常を過ごす自分に違和感を感じながら時間が経っていきました。
震災の衝撃は、Webディレクターとして成長したい、マーケティングを極めたいという私の熱意も、もろくも崩れ去ってしまうほどのものでした。
そして、ある日気づきました。
今、私にしかできないことがあるのではないか。
故郷の復興に、これまで培ってきた「伝える」力を活かせるのではないか。
その思いは、次第に確信へと変わっていきました。そして、思い切って自分の向き合うべき道を選び、転職を決意。復興支援を行うプロジェクトに参加することを決めたのです。
支援の現場で気づいた発信の力
それからは怒涛の毎日でした。
都内のアートセンターを拠点に、被災地の現状や課題を国内外につなぐ活動のプロジェクトマネージャー兼編集者として、事務局の運営やメディア制作に尽力しました。
■活動は多岐にわたります
・被災地向けのフリーペーパーを発行(5万部)
・台湾ほか、国内外で展覧会を実施。記録書籍を発行
・プラットフォームとして、活動と支援を求める人々をマッチング
・映画祭を全国22箇所で同時開催
・トークイベントやマルシェを開催
この経験は、私の可能性を大きく広げてくれました。
これまでの編集や発信のスキルはもちろん、多様なステークホルダーとの交渉、複数のプロジェクトの同時進行管理、メディア取材対応、展覧会設営といった現場での実務まで。これまでに培った視野と体力のおかげで、徹夜の作業もどんなマルチタスクも、苦になりませんでした。
私たちが目指したのは、単なる被災地支援ではありません。災害と向き合う国として、多くの人が一緒に考え、行動するための場づくりでした。
小規模のプロジェクトながら、確実に活動は広がっていきました。
しかし同時に、もどかしさも感じていました。
展覧会やトークイベントを開催しても、十分な告知ができず、予想よりも人が集まらないことも。この大切な議論の場を、もっと多くの人に知ってもらいたいのに、リソース不足で発信力が追いつかない。
そこで痛感したのは、ある厳しい現実…。
どんなに熱意を込めて活動をしていても、認知されなければ存在しないのと同じ
これは、かつて支援してきたクライアントたちが抱えていた課題そのものでした。今度は私自身が、発信者としてその現実に向き合うことになったのです。
新しい可能性との出会い
一方で、被災地の課題に向き合い活動するたくさんの人々の声を直に触れ、発信する活動はとても刺激的でした。
彼らが見つめていたのは、実は震災前から地域に根付いていたさまざまな課題。それを本気で考え、乗り越えようとする人々の切実な想いと行動に、私は心を打たれました。気がつくと、「地方で活動する」という未来が、自然と私の中で確かなイメージとして形作られていました。
そして、私の中に新しい気持ちが芽生えていました。
この経験を、次のステージでどう活かすのか。
決断:地方での新たなチャレンジ

私には、10代の頃から決めていた2つの目標がありました。
1)35歳で出産する(それまで仕事に全集中する)
2)いつか独立して仕事をする
そこに、震災後の経験で新たな目標が加わります。
3)地方で自分の力を試す
行動を起こすなら、このタイミングしかない。上司と相談しながら仕事を徐々に整理し、出産前のタイミングで地方へ移住することを決めました。
移住先を選んだ理由は明確でした。
・地方の可能性に魅力を感じていた
・ゼロからの挑戦ができる
・両親の支えがある
・幼少期によく訪れていた祖父母が住む田舎であること
・自然豊かな環境で子育てがしたい
この決断は、周りから見れば突飛に映ったかもしれません。でも、私の中ではとても自然な流れでした。むしろ、「ここでしか見えないもの」があると確信していました。
地方だからこそ見えてきた可能性。これまでの経験とスキルを、ここでどう展開していくのか。その答えが、少しずつ形になり始めていました。
再出発:経験を武器に
長男出産後、東京の会社の仕事をリモートで続けながら、次男の育休を終えた時、いよいよフリーランスへの一歩を踏み出しました。
正直、最初は「本当にやっていけるのか?」 という不安でいっぱいでした。地方での仕事に明確な当てがあったわけではなく、「ここでどうやって仕事をつくる?」という手探り状態。
さらに、2人の子育てに専念していた期間、情報発信の世界は猛スピードで変化していました。私が当たり前のように使っていた言葉や手法は、すでに古いものになっていました。
「このまま取り残されてしまうのでは?」という焦りも。
まずは育児優先で、時間がコントロールできる「ライター」として活動をはじめました。がむしゃらに新しい情報を収集し、実践を重ねていきます。
その過程で、意外なことに気が付きました。
私のような経験の組み合わせを持つ人が、地方には少ないということに。
✔ 編集の技術
✔ Webの基礎知識がある
✔ プロジェクトマネジメントの経験
✔ 企画や進行管理ができる
都会では当たり前の組み合わせかもしれません。でも、地方では「ライターだけ」「Webだけ」では仕事として成立しにくい。その中で、私の「異色の経歴」が、むしろ強みになり、さまざまなところから声がかかるようになりました。
さらに、コロナ禍という大きな変化が、新たな可能性を開いてくれました。リモートワークが定着し、地方にいながら都市部の仕事が一気にやりやすくなりました。場所に縛られない働き方が当たり前になっていく――この流れは、私にとって追い風でした。
都内の企業や組織に、編集者としてリモートで参画する機会も増え、同時に地元での仕事も順調に増えていきました。そこで痛感したのが最新のSNSやWEBのスキル不足。でも、オンラインで学べる環境は整っています。必要なスキルを、必要な時に、すぐに習得できる。
地方にいることはもはやハンデではない。
むしろ、複数のスキルを持つ「多様な視点」が、新しい時代では強みになると確信しています。
編集者の新しい役割:情報で人をつなぐ
この経験を通じて、私は改めて「編集者」という仕事の本質に向き合うようになりました。業種や業態が変わっても、私がずっと「編集者」として働いてこられたのは、この仕事の本質が普遍的だからです。
「編集者」と聞くと、本や雑誌の仕事を思い浮かべるかもしれません。でも、私にとって編集とは、「目的に合わせて情報を取捨選択し、わかりやすく伝えること」。つまり「情報を通じて人と人のコミュニケーションをサポートし、促すこと」なのです。
✔ 伝えたいことを整理し、適切な形にする
✔ 情報を届けたい相手に、届くように伝える
✔ 発信することで、人や地域をつなぐ
紙媒体、Web、SNS…ツールは変わっても、やることは同じ。だから、私は今も「編集者」と名乗っています。
・プロジェクトマネジメント
・制作進行管理
・各種コンテンツの企画プランニング
・webサイト・紙媒体の編集・ライティング
・インスタグラムの運用サポート
・講座講師
戦略としての情報発信:「伝える」から「動かす」へ

情報発信は、ただ届けるだけでは意味がありません。ただ情報を整理し、伝えるだけではなく、「どう伝えれば、人が動くのか?」 を考えることが肝になってきます。
✔ 誰に、どんな言葉で伝えれば、行動につながるのか?
✔ どの媒体を選び、どう運用すれば、成果が出るのか?
✔ コンテンツを作るだけでなく、「伝わる仕組み」まで設計するには?
今私は、単なる「編集」ではなく、視点を掛け合わせた情報発信に挑戦しています。
結果的に、今のフリーランスの仕事は、これまでの経験を総動員して実践しながら、新しいチャレンジをしている状態です。
「編集×Webマーケティング」「コンテンツ企画×プロジェクトマネジメント」など、情報を取捨選択するだけでなく、それをどう活かし、どう届けるのか?までを設計する。
「伝える」から「人を動かす」へ。
情報発信を、より戦略的なものに変えていくことが、今の私のテーマです。
これからの挑戦:地方から発信を変える
「地方の情報発信は、まだまだ遅れている」
でも、それは 「できない」 のではなく、「やり方がわからないだけ」 なのではないかと思うのです。
だからこそ、私のミッションは、
SNS×WEBで地方の情報発信を変え、地域を盛り上げること。
「発信することで、もっと可能性を広げられる」 ということを伝えたいと思っています。
変わらなければならない。
それは、経営者や発信者の皆さんが誰よりもよくご存知のはずです。
・採用に苦労している
・新規のお客様になかなか来ていただけない
・地域に根付いているはずなのに、認知度が上がらない
こんな課題の裏には、必ず「情報発信」の問題が潜んでいます。
でも、すぐに完璧を目指す必要はありません。できることから、一歩ずつ。
例えば…
・まずは月1回の更新から始めるWebサイト
・社員全員で取り組むSNSの運用
・お客様の声を少しずつ集めていく仕組みづくり
地方移住後にスキルの古さに焦り、悩んだ経験がある私だからこそできる方法で、このブログを通じて、同じように悩む皆さんと一緒に、新しい発信の形を見つけていきたいと思っています。
「できない」のではなく、「やり方がわからない」だけ。
その壁を、一緒に乗り越えていきましょう。
このブログが、全国で発信に悩む経営者や発信者の皆さんの「道しるべ」となることを願って。